東京高等裁判所 昭和29年(ネ)525号 判決 1956年7月31日
控訴人 大谷津健次郎
被控訴人 株式会社下野新聞社
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対して金八十万円及びこれに対する昭和二十八年五月三十日以降右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張は原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
<立証省略>
理由
一、控訴人が肩書地において遊技場「矢板クラブ」を経営していること、被控訴人が「下野新聞」を発行する新聞社であること、昭和二十八年五月十八日の下野新聞第三面に四段抜の見出しで「覚せい剤密売に手入れ、十ケ所急襲十五名逮捕」という標題をつけた別紙目録記載のような記事が掲載されたことは当事者間に争いがない。
二、控訴人は右の下野新聞は栃木県及びその隣県に約五万部頒布販売されたが、この記事は控訴人に関する限り事実無根であるのに、被控訴人は事実を調査せずにこれを掲載したものであつて、これがため控訴人は名誉と信用を失い、精神上の苦痛を受け、かつ経済的にも損害を被つたのであるが、これは被控訴人の過失によつて被つたものであると主張する。
三、そこで、まづ、右記事の真実性を調べてみる。
成立に争いのない甲第五号証。同第六号証、第七号証の各一、二、当裁判所の宇都宮地方検察庁大田原支部に対する調査の嘱託の結果、原審証人神山六郎、緑川六郎、長谷川正男の各証言、原審並びに当審における控訴人本人尋問の結果を綜合すると、「矢板地区警察署が昭和二十八年五月十七日矢板町における覚せい剤密売買に関する一斉検挙を行つた際控訴人宅が同署員の家宅捜索を受け注射器、同針、ネオアゴチンの空アンプル百二十二本、ネオアゴチン入アンプル十九本が発見されたこと、控訴人は昭和二十八年一月下旬頃から同年二月初旬にかけて数回にわたり雇人長谷川正男を通じ矢板劇場内の萩原昇からネオアゴチン二cc入アンプル二本宛を買つて自分の体に注射したこと、また控訴人は『覚せい剤取締法第十八条、第十九条の規定によるの外覚せい剤を譲り受け及び使用ができないにも拘らず昭和二十八年一月頃から同年五月頃までの間萩原昇宅において同人から毎日覚せい剤であるアゴチンを二十本位一本金十円ないし二十円位の割合で譲り受け被疑者が自己の身体に注射をなし不正にこれを使用した』との被疑事実により同年五月十六日同署司法警察官から逮捕状が請求され、これに基いて矢板簡易裁判所は控訴人に対し逮捕状を発布し、同署は控訴人を取調べた上、『被疑者は法定の除外事由がないのに昭和二十八年一月下旬から同年二月初旬頃までの間に長谷川正男を通じて矢板劇場内において小川成之から覚せい剤二cc入五十本を一本金十円の割で買い受けて所持しており之を自己において施用したものである、』という被疑事実で宇都宮地方検察庁大田原支部に送致したが、昭和二十八年五月三十日控訴人は起訴猶予処分にされたことは事実であるが、控訴人は覚せい剤の密売には関係なく従つてその主謀者では勿論ないこと、控訴人に対する逮捕状は執行されなかつたこと」が認められる。従つて、本件記事は控訴人に関する限り事実に符合しないものであるといわなければならない。右認定に反する証拠はすべて採用しない。
四、そこで、本件記事の取材と編集の経緯を調べてみる。
原審証人緑川六郎、神山六郎、原審並びに当審証人川島新八(当審第一回、第二回)当審証人松本武の各証言を綜合すると「昭和二十八年五月十七日矢板地区警察署において下野新聞矢板支局員川島新八外数名の新聞通信員列席のところで、同警察署長から、同日同暑が同町における覚せい剤密売買に関する一斉検挙を行い八ケ所を手入れしたこと、及び検挙者の氏名の発表があり、同時に同署長から『同町には今朝鮮人が出入して覚せい剤を売つている。今度逮捕された十五名も殆どこれを買つているだろう、そして買つた者は再び他人に売つているだろうが、その値段は一本十八円位で取引されていると思う』との談話があつた。そして逮捕者のうちには控訴人及びその雇人長谷川正男も入つており、また、控訴人宅が家宅捜索を受けたことも発表された。ところが、下野新聞の本社社会部では、かねて矢板町を中心として覚せい剤の密売買のルートがあるというので半年位前から取材活動をしており控訴人経営のパチンコ屋がアジトであるという情報もあつたので、矢板署の発表数日前から矢板支局に連絡し、取材するよう指示していた折柄でありかつ、川島通信員もまた同じような情報を得ていたので、同人は控訴人が同町の町会議員もしたことのある有力者でパチンコ屋も盛大にやつているので『大谷津健次郎は該事件の首謀者と目されて逮捕された。調べによると---大量にネオアゴチンを---大谷津健次郎に売り込み更に同人等は数人の売込人を使つて一本十八円程度で売つていたもので引続き取調中』というような別紙記載の記事原稿を本社社会部に通報した。然るに、本社社会部でも当日国警栃木県本部で該事件の発表を入手し控訴人が逮捕されたことも発表されたので、本件の社会部員松本武は川島通信員の通報とかねての情報によつて川島通信員の通報通りの記事を作つたところ、編集局ではその真否については何等の調査の方法をとらずにそのまま昭和二十八年五月十八日の下野新聞第三面に掲載したものである。」ことが認められる。右認定に反する証拠はすべて採用しない。
五、思うに、日刊新聞は毎日の出来事を一般人に迅速かつ、正確に報道することを使命するものであるから、事実の調査については時間的制限を受けることは避けられないのであつて、些細の点において事実に符合しない場合が時に生ずることは已むを得ないところである。従つて、一般的な社会現象の報道についての誤報の責任を追及するのは妥当でない場合があると考えられる。然しながら、もし、他人の素行に関する誤報が一旦新聞紙上に報道されると、そのことは真実として広く世間に流布され、これによつてその人の名誉、信用は毀損されるわけである。ところで、新聞社がその発行にかかる新聞紙に個人の犯罪事実に関する被疑事件のような個人の名誉と信用にかかわる事実を掲載しようとする場合は、個人の名誉と信用を害することを考慮して事実について一応の証明があつたものと認められる場合に限り掲載すべきものであつて、事実についての蓋然性を以つて足るものとすることはできない。この見地から考えると、担当通信員が私人の被疑事実を捜査に当つた警察署において取材した場合でも記事として新聞紙上に掲載する事実は当該警察署で署長その他責任のある地位にある者が当該警察署の発表として発表した事実の範囲内に止めるべきものであつて、いやしくもその事実を誇張したり自己の憶測又は確実でない情報などを付け加えることは許されないものと考えられる。特に「調べによると」と冒頭して記事を掲載する場合はその記事内容はあたかも警察署が捜査の結果を発表したものであるような印象を読者に与えることになるから、その事実を警察署の発表事実に限定すべき必要性は特に強調さるべきものである。このような注意は通信員についてのみならず、本社の社会部ないし編集部についても要求せらるべきものといわなければならない。本社の社会部、編集部が担当通信員の取材について別個に事実の真否を調査する時間的余裕がないとしても少くとも担当通信員に対して所謂ニユースソースを確かめるとか、或は、また、取材態度に対する叙上説示の注意義務について日常注意を与えておくことが必要であると考える。
このことは、刑法の名誉に関する罪の章において「公然事実を摘示して人の名誉を毀損したる者はその事実の有無を問わず名誉を毀損した罪を適用されるけれども、この行為が公共の利害に関する事実(未だ公訴が提起されない人の犯罪事実に関する事実はこれを公共の利害に関する事実とみなされる)にかかり、専ら公益を図るに出てたと認められるときは事実の真否を判断し、真実なることの証明があつたときはこれを罰せぜ」と規定されているところからも首肯されるところである。
六、そこで、本件の誤報記事は被控訴人の過失と認められるかどうかを考えてみる。
前述の如く、矢板警察署において発表された検挙者のうちには控訴人も含まれており、控訴人に対して逮捕状が出たことは叙上説明のとおりであるから、たとえ、控訴人は実際には逮捕はされなかつたとしても、この点について川島通信員にも松本武にも過誤はなく被控訴人には過失はないと認めるのが相当である。然しながら既に四において説示したように、同署では控訴人が覚せい剤密売の首謀者であるとか、朝鮮人許春から覚せい剤を買つて更に数人の売込人を雇つて一本十八円程度で売却したとかいうようなことは発表せず、ただ、同署は矢板町の覚せい剤密売買に関する一斎検挙を行い控訴人の居宅を始め八ケ所の手入をなし、控訴人宅から覚せい剤に関する証拠品が発見されたこと、控訴人が逮捕せられたことが発表された外、同署長から「今矢板町には朝鮮人が出入りして覚せい剤を売つている。今度逮捕された十五名の者も殆どこれを買つているだろう、買つた者は再び他の人に売つているだろう、その値段は一本十八円位で取引されているだろう」との談話があつただけであるのに、川島通信員はかねて自分が得ていた情報と憶測などをもとにして本件記事原稿を作つて本社に通報したところ、本社社会部の松本武も同日国警栃木県本部でこの事件の発表をきき控訴人も逮捕者のうちに入つていたので、松本武はやはり自分が得ていた情報とかねての取材活動の結果などを綜合して川島通信員が通報したとおりの本件記事を作り、本社社会部又は編集部においては別段他に何等の事実の真否の調査をしないで、そのまま昭和二十八年五月十八日の下野新聞に掲載したものである。このような記事作成の態度は通信員としても、また、新聞社としても人の犯罪事実に関する記事を作成するについて守るべき注意義務に反するものであつて、いずれも過失があつたものと認むべきである。
川島通信員が本社に通報した記事を本社社会部の松本武がかねての情報と当日の国警栃木県本部における発表によつて川島通信員の通報を真実と信じたとしても、これを以つて前記の誤報部分について一応の証明があつたものと認むべきでないことは勿論、本社として本件記事について充分の調査を行つたもであつて、本件誤報について過失がないものとすることもできない。新聞社の本社としてその通信員が作成した記事原稿の真否を常に別個に調査するような時間的余裕はないとしても、担当通信員についてニユースソースをたしかめるとか、或は、また、常時人の犯罪事実を取材する場合の態度について注意を促す等の措置をとつて誤りのないことを期するのが相当であると考えられるが当審証人武石長雄の証言によると、被控訴人はこのような措置は全然とつていないことが認められる。
七、尤も、控訴人が法定の除外例に該当しないのに自分の体に覚せい剤を注射したという理由で矢板簡易裁判所から逮捕状が発布されたこと、またこのような事実があつたこと、控訴人宅が矢板地区警察署員によつて家宅捜索を受け証拠品が発見されたことは叙上説明のとおりであり、覚せい剤を自分の体に注射することも法定の除外例に該当しない限り罪となることは覚せい剤取締法の定めるところではあるが、覚せい剤を売込人を使つて密売することと、覚せい剤を自分の体に注射することとを比較すれば、その反社会性において格段の相違があり世の指弾をうけることにおいては到底同日に談ずることはできないところであるから、控訴人に関し前記のような事実があつたとしても、このことを理由として、「控訴人は覚せい剤密売の主謀者であつて売込人を使つて一本十八円位で密売した」との誤報を、迅速を尊ぶ新聞社としては已むを得ない若干の誤報であるとして不問に附し得べきものではない。また、前掲証人川島新八(当審第二回、)松本武は控訴人宅が覚せい剤密売買のアジトであるという情報をかねて得ていたと供述しているけれども、当日の矢板警察署長の発表においてはこのような発表のなかつたことは既に説明したとおりであつて、この情報が真実であるとの一応の証明があつたものと認め得る程度の裏付があることを明認すべき資料はないから、これらの情報は両人の不確実な所謂聞込み程度のものであつて、本社として川島記者の通報について調査をなし、事実について一応の証明を得たものとは認められない。
従つて、このような聞込みを基礎にして、同署が控訴人を覚せい剤密売の主謀者として発表したかの印象を与えるような記事を掲載することは過失であると認めざるを得ない。また、控訴人宅から証拠品が発見されたこと、控訴人の雇人が検挙されたことから、一応控訴人が覚せい剤の密売に関係があつたと推断することは常識である。として川島新八の過失を否定すべきでないことも言をまたないところである。
八、なお、矢板地区警察署の覚せい剤一斎検挙に関する記事は被控訴人の下野新聞だけでなく「栃木新聞」「朝日新聞栃木版」「読売新聞栃木読売」にも掲載されたことは成立に争いのない乙第三号証ないし第五号証によつて認められる。然しながら右乙号各証によると、栃木新聞の記事は「矢板署では十七日朝五時を期し署員八十四名を動員して管内十ケ所で一斎覚せい剤取締を行い少年少女二名を含む次の十五名を逮捕するとともに注射器六本その他針十本、ネオアゴチン二百四十八本空アンプル二百十四本を押収した」となし、逮捕者のうちに控訴人の氏名年令、職業を記載し、かつ、「調べによれぱ販売経路は野崎駅前の許から萩原の手をとおして長谷川、関谷の三名が小売人となつてバラまいていたもので、なお検挙者があるものとみて同署では厳重追求の決意を示している」となし、また朝日新聞栃木版は「矢板地区署は十七日朝三十名の警官を動員して矢板町十ケ所の興ふん剤使用者と密売者の一斎検挙を行い六区の興行師萩原昇と同居人四名およびパチンコ業大谷津健次郎等十五人を逮捕、ネオアゴチン二百四十八本、注射器六本空ビン多数を押収した。許が首謀者となつて東京方面から興ふん剤を仕入れ萩原はこれを一本十八円ぐらいで買つて売りさばいていたもの」との記事を、また、読売新聞栃木読売は「ポン密売の十五名逮捕不良や高校生に売込む」、との見出で同署の覚せい剤密売に関する一斎検挙の記事を掲載したが、控訴人に対しては具体的には何等触れていないことが認められる。
九、従つて、同署の本件一斎検挙に関する報道において控訴人を覚せい剤密売の首謀者と見られる者として逮捕されたとの記事を出したのは被控訴人の下野新聞だけである。このことも、また、被控訴人に過失を認め得る一つの根拠とすることができるものと考えられる。尤も、被控訴人は栃木県を主とする地方新聞であるから、県下のローカルニユースを大新聞の地方版よりも一層くわしく報道して地方新聞として特色を発揮しようとする意図は察せられるのであるが、それだからといつて、真実でない事実を附加して記事を着色すべきものでないことは当然であつて、被控訴人と同じく地方新聞である栃木新聞の前記の記事と比較しても被控訴人の本件記事作成の態度は是認することができない。
以上説示のとおりであつて、被控訴人について本件誤報の過失を阻却すべき事由は何等見い出すことができないのである。
十、そして、被控訴人は栃木県における信用ある新聞社で一日約五万部の発行部数を有することは弁論の全趣旨に徴して当事者間に争いがないものと認められ、また、控訴人が昭和二十二年当時矢板町会議員に当選しその任期中教育委員を勧めたことがあり、また、当時自由党矢板支部の副支部長をしていたことは原審証人高橋保平の証言によつて認められるから、下野新聞に本件のような記事が出たことは控訴人の名誉と信用を害することは勿論その他の点においても精神上の苦痛を受けたであろうことも考えられるところであつて、特段の事由がないかぎり、被控訴人は控訴人に対して本件記事によつて控訴人が被つた精神上の苦痛を慰藉するとともに、もし物質上においても損害を被つたものがあればこれについても賠償をなすべき義務があるわけである。
十一、なお、成立に争いのない甲第三号証の一、二、同第四号証及び当審証人川島新八(第二回)の証言によると、被控訴人は、本件について昭和二十九年二月十日原裁判所から控訴人(原告)敗訴の判決の言渡があつた後、間もなく下野新聞の社説において被控訴人社長福島武四郎は本件の問題を取り上げ、「新聞の自由と人権主張の限界、矢板の告訴事件に思う」「本件の勝訴とその判決理由」という表題で本件を論じ、その内容において「本件記事のうち、控訴人が覚せい剤密売の主謀者であるとかこれを密売したということは誤報であるが、控訴人に逮捕状が出されたこと、控訴人が覚せい剤を密買したことは事実である」と掲載し、本件に関する被控訴人の意見を表明したことが認められる。従つて、被控訴人は下野新聞に控訴人に関し本件記事と同じような記事を二回にわたつて掲載したことになるわけであるので、この社説によつても控訴人の名誉、信用は再び毀損されたのではないかとの疑念も生ずるのでこの点について考えてみる。
右の社説を通読すると、下野新聞がこのような社説を掲載したのは、後に十三、において説明するように下野新聞は本件記事を掲載した後直ちに翌日の下野新聞に後述するような下野新聞としては前例のない丁重な取消記事と本件記事を否認する控訴人の談話を掲載し、次いで控訴人に謝罪状を交付し、下野新聞としては最大限の誠意を尽して陳謝の意を表したに拘らず、控訴人はこれに満足せず、被控訴人を被告として宇都宮地方裁判所に損害賠償の訴を提起したので、被控訴人はこれに応訴して抗争した結果原告(控訴人)敗訴の判決言渡であつたので、被控訴人は下野新聞の社説において、本件は取消記事と控訴人の談話の掲載と謝罪状の交付によつて控訴人の信用、名誉は回復されたのであるから、控訴人の損害賠償の主張は失当であることを主張するとともに新聞社の立場をよう護する見解を表明したものと認められる。そして、新聞社として、本件のような問題によつて損害賠償請求の訴を提起されることはその面目、信用にかかわることであるから、該事件について被控訴人勝訴の判決が言渡されたのを機会に、本件の問題は、本件記事の取消記事の掲載、控訴人の談話の掲載及び陳謝状の交付などによつて解決したものと認むべきこと、及び本件の問題に対し新聞社としての見解を発表することは新聞社として適宜の措置であつて、その際本件誤報記事の内容を説明し、問題の全ぼうを明にするのは記事の内容を事実として報道するものではないから、決して控訴人の名誉信用を害するものではなく、またその他の点においても控訴人の利益を重ねて害するものということはできない。
十二、被控訴人は、控訴人に対して本件記事を下野新聞に掲載したことに対して後に十三、において認定するような取消の記事と控訴人本人の談話を掲載し、更に謝罪状を交付したことによつて、本件は解決したものであつて、控訴人には損害賠償請求権はないと主張するのでこの点について考えてみる。
被控訴人が翌日の下野新聞に本件記事の取消記事と控訴人の談話を掲載し、かつ編集局次長名義を以つて謝罪状を交付したことは後に十三、において認定するところによつて明であるが、これによつて、控訴人が本件に関する損害賠償の請求権を放棄したと判断するのは早計に失するものと考えられる。むしろ、原審並びに当審証人武石長雄の証言、原審並びに当審における控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は被控訴人に対して即日本件記事の取消記事の掲載を要求するとともに下野新聞社長名義の謝罪文を要求したに対して、被控訴人は翌日の下野新聞に本件記事の取消記事と控訴人の本件記事を否認する談話を掲載するとともに社長の指示によつて控訴人に対し編集局次長武石長雄名義を以つて謝罪状を交付したところ、控訴人はこれだけでは不服であるとして更に被控訴人の社長と折衝を重ねようとしたが、被控訴人はこれ以上のことはできないといつて控訴人の申し入れに応じなかつたので、控訴人は本訴を提起するに至つた事実が認められるから、被控訴人が翌日の下野新聞に取消記事と控訴人の談話を掲載し、かつ、謝罪状を控訴人に交付したことにより控訴人がその損害賠償の請求権を放棄したものと認めることはできない。
十三、然しながら、被控訴人は後述のように、翌日の下野新聞に取消記事と控訴人本人の談話を掲載し、その上編集局次長の名義で謝罪状を交付しているので、これらの措置によつて、本件記事のため毀損された控訴人の名誉と信用は回復され、また、その他の点において控訴人が被つた精神上の苦痛が治癒されたかどうかを考えてみる。通常新聞紙の取消記事は新聞紙の下段に小さく掲載されて殆ど読者の目に触れないような状態であることは経験則上明なところであるが、本件の場合を見ると、成立に争いのない乙第二号証(翌日の下野新聞)によると、これとは全く趣を異にしており、下野新聞の第三面に「十名を一応釈放、大谷津は無関係」という二段抜きの見出で取消記事を掲載し、その、本文には「同町クラブパチンコ店主大谷津氏は密売の事実なく(昨報は誤り)従つて、逮捕されたこともない」との記事を掲載し、かつ、この記事の次に控訴人の要求通りその談話「その内容は(自分としては数ケ月前に徹夜作業をするために数本使用したことはあるが、今回この事件については何等関係していない。雇主として警察の取調を受けたが、今回の事件には全然関係のないことが警察にも判り逮捕などされていない」を掲載し、全面的に前日の本件記事を取り消したことが認められ、また成立に争いのない甲第二号証によると、被控訴人は更に編集局次長武石長雄を以て控訴人に謝罪状を交付したことが認められる。誤報の訂正に関するこのような方法は新聞社としては稀なことで被控訴人としても全く前例のないことであることは原審証人影山銀四郎、当審証人松本武の証言により認められる。また、前記の取消記事と談話の掲載個所、活字の大きさ、文言などから考えると下野新聞の当日の読者はいずれもこの取消記事と控訴人の談話記事を読み、控訴人が該事件の主謀者でもなく密売したこともないことを諒承したものと認められる。尤も、本件記事を読んだ者の全部がすべて翌日の下野新聞を読んだとは断言できないのであるが、少くとも大部分の読者はこれを読んだものと認めることは差しつかえないと考えられる。右認定に反する証拠は採用しない。このように、被控訴人が控訴人に対して直ちに翌日の下野新聞に前記のような形式内容ともに例外的に丁重かつ、詳細な取消記事と本人の談話を掲載し更に謝罪状を交付したことはまことに誠意のあるものであつて、新聞社に対してこれ以上の訂正と陳謝を期待することは特段の事由のない限り妥当ではないと考えられる。そして、控訴人は本件の覚せい剤一斎検挙について全然関係がなかつたというのではなく、法定の除外例に該当しないのに自分の体に覚せい剤を注射したこと控訴人に対して逮捕状が出たこと、控訴人宅が家宅捜索を受けて証拠品が発見されたこと、控訴人が覚せい剤取締法所定の除外例に該当しないのに覚せい剤を買つて自分の体に注射した、という被疑事実で矢板地区警察署の取調を受け、この被疑事件は宇都宮地方検察庁大田原支部に送致され同検察庁で起訴猶予処分に附せられたということにおいて右覚せい剤一斎検挙に関係があつたのであるから、本件記事は控訴人を害する目的で作られた全くのねつ造記事というわけではなく、川島記者の書き過ぎによる悪意のない誤報である。そして、控訴人本人にも前記のような事実があつたことを考えると、本件記事が掲載されたことについては控訴人自身にも責任の一端を負担すべきものがあると思考される。これら諸般の事情と、控訴人が昭和三十年の矢板町会議員の選挙に当選したこと、(当審証人川島新八の証言(第二回)により認められる)などと合せ考えると、本件記事によつて毀損された控訴人の名誉と信用は前記の措置によつて回復されたと認めるのが相当である。尤も、前記の取消記事と控訴人の談話を掲載した下野新聞を前日の本件記事を読んだ者のすべてが同じ様にこれを読んだとは認め兼ねるから、本件記事を読んだ者のうち翌日の下野新聞の取消記事と控訴人の談話を読まなかつた者も若干あることは免れない。然しながら、前記認定の諸般の事情から考えると、若干の読みもれのあることは前記認定に支障となるものではないと考える。従つて、前記の取消と談話の掲載謝罪状の交付に加えて更に慰藉料の請求をする理由はないと認める。また、その余の点において控訴人が受けた精神上の苦痛について、原審証人大谷津キヨ及び控訴人本人(原審)は、本件記事が下野新聞に掲載されたため、高校在学中の控訴人の長男はこれを苦にして当日と翌日学校を休み、また、小学校五年と三年に在学中の二男、三男もこのことを苦にしていたためこの点においても、控訴人は親として精神上大いに苦痛を受けたものであると供述しているけれども、既に説明したとおり、本件記事は翌日直ちに取り消され、控訴人の談話も掲載されたのであり、右証人大谷津キヨの証言によつても右取消記事は控訴人の妻大谷津キヨも読んだことが認められるのであるから、控訴人の子供達ももとよりこれを諒承したものと認むべきであつて、控訴人が受けた前記の精神上の苦痛は右取消記事と談話の掲載及び謝罪状の交付によつて治癒されたものと認めるのが相当である。
尤も、右謝罪状は被控訴人の法律上の代表者である社長名義ではないが、記事編集について責任の地位にある編集部次長が被控訴人の代表者である社長の指示によつて被控訴人を代表して謝罪状を交付したものであり、このようなことは新聞社の面目として好ましからぬことではあるが、地方新聞としての特異な地位と控訴人の立場を考慮して社内の反対を排して特に社長が交付することを指示したものであることは当審証人武石長雄の証言、原審における被控訴人代表者福島武四郎尋問の結果によつて認められるから、前記謝罪状が被控訴人からの謝罪状と認めるのに支障はない。
十四、また、控訴人は、本件記事の掲載によつて、控訴人経営の遊技場の売上が減少し、一ケ月金五万円の割合の損害を被つたと主張し、原審証人大谷津キヨ及び控訴人本人(原審並びに当審)はこれと同趣旨の供述をしているけれども、右各供述はいずれもにわかに措信し難く、他に控訴人の右主張事実を明認すべき資料はないから、控訴人の該主張は採用することはできない。
十五、以上説示のとおりであつて、本件記事によつて毀損された控訴人の名誉と信用は回復され、精神上の苦痛は治癒され、いずれも慰藉料を請求し得べきものではなくまた、物質上の損害については適確な証拠がないのであるから、控訴人の本訴請求は理由がないものとしてこれを棄却すべきものとする。
十六、然らば、控訴人の本訴請求を理由なしとしてこれを棄却した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がない。
よつて、これを棄却すべきものとし民事訴訟法第三百八十四条、第九十五条、第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 浜田潔夫 仁井田秀穂 伊藤顕信)
目録
矢板署では最近町内に大量の不法覚醒剤(注射液)が流れ込んでいるとの聞き込みで内偵を進めて居たが確証を得たので署員三十名を動員十七日午前五時を期して首謀者とみられる矢板町駅前映画劇場萩原昇方および同町クラブパチンコ店大谷津健次郎方ほか八カ所を急襲注射器六本注射針六本ネオアゴチン二百四十八本空アンプル二百十四本その他証拠品多数を押収し覚せい剤取締法違反で矢板町興行師萩原昇(四二)同家居住無職小川茂之(二六)同関谷カツ(二〇)同長谷川銀三(三二)同無職古内勲(三〇)同町浜屋組事務員沢田利平(二四)同町針生無職芝茂(二六)同町クラブパチンコ店主大谷津健次郎(四五)同雇人長谷川正男(二四)同町日本興業短資外務員亀山国雄(二五)同町某少年(一七)同町無職上原正(二五)同町鍛治職田中正男(二二)同町無職某少女(一六)野崎村野崎駅前無職朝鮮人大林春子こと許春の十五名を逮捕した。
調べによると数年前から朝鮮人許春が東京、宇都宮方面から大量にネオアゴチンを買込み萩原昇、大谷津健次郎などに売込みさらに同人等は数人の売込人を雇つて一本十八円程度で売却していたもので引続き取調中。